エコマンションの建設日記「第1章−4.-倒産・再建・そして-」
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マンション建設日記  
━━━(第1章)━━━
1. はじまりのはじまりは出産
2. 不思議な体験
3. 息子の心臓に穴
4. -倒産・再建・そして-
5. 妹の死と廃業
6. 不動産業についての持論と設計の基本
 
7. 二人の助産婦さんと一冊の本との出会い
 
━━━(第2章)━━━
1. 私がシックハウス症候群?
2. 誰に相談するのか?
3. 誰に相談するのか?
-設計士編-
 
4. 設計士さんへの意思の伝え方と契約のポイント
 
5. 建築を知らなくてもできる平面プランの作り方
 
6. むっずかしい〜自宅プラン
7. えっ?好みが違う?
なるほど・・・
 
8. 夫婦で二人三脚
9. 資金計画です。-@
10. やってやろうじゃないの!
-資金計画ですA-
 
━━━(第3章)━━━
1. 遅かった・・・あと1日
2. 何を聞いていたの?
3. 1本の電話から
4. 1億円オーバー
5. 潔く
6. 沈黙のとき
7. 願いのとき
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第1章−4.-倒産・再建・そして-
さて今回は、ちょっと趣を変えて、私の経験をとおして≪事業≫というものを考えたいと思います。

 戦後のドタバタがまだ残る昭和25年私の祖父が創立した「反後屋本店」は、その努力の甲斐あって着々と事業を進展させていきました。
昭和30年代から40年代はじめには寝具の卸問屋として熊本はもちろん、九州一円に取引先を持つまでになっていました。
 私が産まれたのは昭和36年「反後屋本店」華やかなりし頃でした。私は、熊本駅前にあった「春日店(かすがみせ)」で幼少を過ごしました。今でもよく憶えています。
当時熊本駅に貨車でたくさんの荷物がつき、それをたくさんの従業員さんが、駅裏の倉庫に運び込みます。隣の工場では、若い女性の縫い子さんたちが、動力ミシンでどんどんお布団の側(生地)を縫っていきます
私の目の前で、手馴れた職人さん達が側、綿、針、糸を使っては手際よく敷布団・掛け布団…作りあげて行きます。それは惚れ惚れするような職人芸でした
 着々と規模を拡大していく「反後屋」は東京進出も果たします。誰が見ても順風満帆です。 
しかしその先に落とし穴が待っています。東京での事業規模拡大に失敗。その穴埋めも失敗。事業の怖さです。坂道を登るときはたいへんな努力がいりますが、いったん落ち始めると雪だるま式にその負債は増えて行きます
 昭和45年3月「反後屋本店」倒産。私が小学校3年生の春休みでした。
取り立てや、恐い人達が1日に何度もやってきます。私達姉妹は店の2階からそっと覗きます。
当時33歳だった母が一人で毅然と応対していました。
「商売は恐い」…私は幼心にその一言を刻み付けられました
そしてあんなに仲の良かった親族もこの日を境にバラバラになりました。
その後間もなく、家中の家具や持ち物に父以外の家族の名前を書いた札が貼られました。差し押さえられないためにです。そして当然引越しです。駅裏の倉庫になんとか人が住めるようなスペースを確保してもらって引っ越してゆきました…。

 父は次男。「石橋を叩いて渡る」実直な性格でした。病床に伏す祖父、もろに負債を負った長男の伯父に代わり、「反後屋」の再建に全力を傾けました。
そのとき父は、その後の人生の恩師ともなるべき「市野 毅さん」という方と出会います。市野先生に指南され、反後屋の負債処理について、京阪の仕入れ先に御理解を頂き、「取引先・従業員・資本」全て反後屋時代の3分の1に縮小し、「かねくら株式会社」として再出発をきりました。昭和45年5月倒産から2ヶ月 当時としては異例のスピードでした

 お陰様で、当時の高度成長に乗って「かねくら」は、あっという間に再建を遂げます。もちろんその背景には、父を中心とした従業員の皆さんの並々ならぬ努力があったことは言うまでもありません。京阪の仕入れ先にも、九州一円のお得意様にも、たいへんな応援をしていただきました。
たくさんの方々に支えられて「かねくら」は、もう一度熊本一の寝具の卸問屋として再生を果たすことが出来ました

 昭和50年代後半物があれば売れていた時代から、物があふれる時代へと世の中はどんどん変化して行きます。
そして、より便利に、より見栄え良く、安い物へと市場はどんどん変化していました。
 卸売業も含めた流通業も激動の時代に入っていきます。
まずはカタログに代表される通信販売の台頭、そしてそれを支えたのは運送業の宅配です。
また、お客さまは、一家に1台以上の車を持ち、車で買い物に出かけられます。つまりは駐車場という不動産に余裕を持てない中心部は瞬く間にその流れを失って行きます。駐車場を広く持つ郊外店舗、しかも卸など流通を大幅にカットすることにより実現される低価格で勝負できる大型ショッピングセンター。
どれをとっても、これまでの「かねくら」を支えてくださった、九州一円に地元商店として頑張ってこられたお得意様にとっては、マイナス要因ばかりでした。しかも、お得意様自身の高齢化に、後継者不足が重なって、商売についてのやる気に陰りが見えるようになったお得意様が増えて行ったのも事実でした。
 「卸売業のかねくら」としてもここは一番の転換期でした。昭和58年そんな変化をまだ実感し始めたかかどうか?という頃 (当時まだ売上は過去最高を更新していました)父は、「かねくらビル」の建築に着工するため、駅前通りの仮店舗に移りました。ところが、その直後から売上が激減。しかも父自身が狭心症で倒れるというアクシデントが重なりました。もちろんビルも断念することになります。昭和59年父52歳、私23歳でした。その春から私自身もかねくらに入社。
 売上高は確かに最高だった。しかしその中身は…その回収率、今後見込まれる売上の推移、在庫における商品構成など…どれを取っても私の目には希望の持てる値は見えませんでした。
「本当にこれで大丈夫なのか?」私は何度も何度も父と討論しました。しかし、「じゃあどうすればいいのか?」という父の問いに、私も残念ながら明確な答えを見つけられませんでした。父を説得し動かせるだけの材料をまだ持ち合わせていなかったのです。

 ちょうどその頃、わたしは、反後屋倒産時から家族ぐるみでお世話になってきた「市野先生」のお宅に呼ばれ、今後の「かねくら」そして事業の展望について、ご指導を受けました。
「人美ちゃん、日本は国土の限られた島国だ。今までもそうだったように日本経済の根幹を成すのは不動産だ。宅建の資格を取りなさい。不動産を勉強することで、経済や税制、世の中の仕組みも見えてくる。必ずあなたの役に立つから勉強をしなさい。」
 何も考えませんでした。かねくらからも離れ学校に通い、ただひたすら市野先生の言葉を信じて勉強しました。必ず一回で合格する。そう言い聞かせて…。そして、その昭和61年合格。私は「宅建主任者」になりました。25歳でした
 

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